ベルリンのユースホステルで出会った在日青年ピョン君の話。

2011年8月29日
2016年7月6日
gappacker
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2006年に3ヶ月間ほどヨーロッパを回っていた時にベルリンで在日韓国人のピョン君と出会った時の話を過去の日記より抜粋し加筆訂正しました。

ヨーロッパの旅の途中、ベルリンのユースホステルにて。
一日中ベルリン市街を歩き回った後、夕方ロビーで日本人らしき若者がいたので挨拶がてら話しかけた。
「日本の方ですか?」
すると
「在日です。」
と笑顔で答えが帰ってきた。
想定していなかった答えに一瞬とまどったが、俺たちは会話を続けた。

彼の名前はピョン君。
在日韓国人でありながら朝鮮大学に通う学生だ。

これまで在日の人とゆっくり話をしたことは一度もなかった。
俺は興味をもち、無意識の失礼に細心の注意を払いながらも距離感を詰めるように会話をすすめた。
細心の注意とはいったものの、彼はとても気さくな人間だったのでそのような心配は希有に終わった。

彼と話していると特別に変わったところは感じられない。

むしろ違いを感じるほうがおかしいのかもかもしれない。
「思いっきり日本人だ」単純にそう感じてしまった。
見ているテレビや笑うところも一緒だった。
俺は思い切って聞いた。
「在日の人に好意的な意味で「日本人じゃん」と言うのは失礼なの?」
ピョン君は気にしないと言った。
でも、同時に好意的に言ったとしても嫌悪感を感じる在日はいるとも言っていた。

偶然だったがヨーロッパに旅立つ前に在日の人が書いた本を読んでいた。
タイトルは「原罪としてのナショナリズム」。

著者は韓国で生まれ、日本で幼少期から成人するまでを過ごし、カナダに移住した在日韓国人だ。
この本のなかで在日の歴史が書いてあったので記憶を元に概要を書いておこう。

日本が朝鮮に侵略し(解釈はいろいろあるが俺は侵略だったと思う)農民の土地を強制的に奪ったため、土地を失った農民の多くが仕事を求めて日本に渡った。
日本に渡ったものの、まともな仕事はあまりなく、彼らは炭坑など環境や条件の悪い仕事をしながらもなんとか食っていた。
そんななか朝鮮戦争が勃発し、日本に渡って暮らしていた朝鮮人の祖国が二つにわかれてしまった。
彼らは二つに分かれてしまった祖国のどちらかを選択しなければならなくなった。
その後、在日朝鮮人と在日韓国人にわかれたのだが、朝鮮が積極的に在日朝鮮人を支援したのに対して韓国はそれほど熱心に支援しなかった。
在日韓国人が通名という日本名を持ち、日本社会になじもうと苦労したのにはこのような背景がある。
一方、朝鮮は学校などの建設など支援を積極的に行ったため彼らは朝鮮人としてのアイデンティティを失わずにすんだが、同時に思想教育は続いた。
パチンコ業界(特にホール)に在日が多いのにも差別等があり、自由に職種を選択できなかった背景がある。

学校では習わない歴史。
日本という国は都合の悪い事をなかった事にしてしまう風潮があるように思う。

ピョン君の話に戻ろう。
彼は在日韓国人でありながら朝鮮大学に通っている。(朝鮮大学は日本で正式に大学とは認められていない)
話をしていると日本人と変わらないと思いつつ、唯一違和感を覚えたのが金正日についての見解であった。
彼は終始、アメリカが彼を追いつめるから緊張状態になっていると金をかばっていた。

「偽ドル札持ってきたの?」とのブラックジョークに笑顔で答えながらも、そこだけは一貫していた。
学校の友達はほとんど在日朝鮮人で思想教育を受けている。
例えおかしいと感じていても、金正日のことは悪く言えないのかもしれない。

最後にピョン君は日朝、日韓の架け橋になりたいと言っていた。
国籍の問題と外国人参政権、パチンコ利権、そして朝鮮総連の問題など一筋縄ではいかない難問は山積みである。
彼のような人間が活躍し、両国のわだかまりが過去のものとなり
自分たちのように日本で生まれ育った彼らにとっての不平等で不誠実な状況が過去のものになる日がくればいいと思う。

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