鎌倉南西部、長谷ー極楽寺間を繋ぐ極楽寺坂切通し
鎌倉は南を海に東西北を山に囲まれた地形になるため、昔の人たちが鎌倉に出入りするために山を切り開いた交通路があります。それらは鎌倉七口(かまくらななくち)と呼ばれています。
鎌倉七口
今回紹介するのは鎌倉南西部の長谷と極楽寺エリアを繋ぐ極楽寺坂切通し。
場所はこの辺。
追記:現在の極楽寺坂切通しは大正時代に拡張されたもので、もともとは成就院側のもっと高い位置にあったそうで、オリジナルの面影はないそうです。
極楽寺坂切通しに長谷坂の下方面から向かうと緩やかな上り坂となっていて、右手に虚空蔵堂が見えます。
さらに進むと右手に六地蔵。
道路で舗装された自動車道となっていますが、機械なしでこれを切り開いたことを考えるとなかなかのハードワーク。
左手の高台の上には成就院があります。
極楽寺坂の石碑があります。この手のは読んでもよくわかりません。
あらためて壁面をみるとなかなかの迫力。
坂を登りきったあたりが江ノ電極楽寺駅。
このトンネルから出てくる江ノ電を撮影している観光客をよく見かけます。
橋の横には導地藏(みちびきじぞう)があります。極楽寺を開山した忍性が地蔵を安置したのが始まりと言われているそう。
お祭りの前にはここで子どもたちが太鼓や笛の練習をしていたり、天気の良いは腰掛けてる人がいたりして、地元ではちょっとした憩いの場所になっています。
ちょうど江ノ電が停車しているところ。
江ノ島方面に向かうと次の稲村ヶ崎から海岸沿いを走ります。
こちらが極楽寺駅。
なぜか極楽寺坂切通しには史跡看板がありませんでした。
そのかわり、江ノ電極楽寺駅前に極楽寺坂切通しの記載があったので紹介します。
極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘三年(1333)五月、一族を集めて倒幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宋氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞。逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい橋を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。
まとめ
この道は何百回と通ってる道ですが、すでに一般道化しているため、これまで歴史を意識したことは全くありませんでした。実際に歴史と照らしあわせながら通ってみると結構重要な拠点だったんだなぁと再発見が多かったです。
切通しとしてはインパクト少ないと思ってたんですが、岩肌を見る限りかなり大変だったのが創造できます。
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