なぜ僕らはバイラルメディアに嫌気がさすのか。

2014年8月2日
2015年12月19日
gappacker
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バイラルメディア

バイラルメディアに疲れる僕たち

バイラルメディアに対して嫌気がさしている。
すでに今さら感はあるんだけど、その理由を文章にしておこう。
今さらとは言っても、体感的にはキャズム理論で言う所のアーリーマジョリティの最初の群れあたりに属するトピックな気がするので、記事にする意味はあると思う。

おそらく僕の友人のうちの半数はバイラルメディアという言葉すらわかっていないし、それに嫌気をさしていること、なぜ嫌気がさすのかという部分については全く意味がわからないと思う。というか興味自体がないかもしれない。でも、多分あと1年くらいはこの嫌気と付き合わなければならないと思うので、少しでもその流れに歯止めをかけたいというのが記事を書く動機のひとつでもある。

バイラルメディアとは何か?

バイラルメディアとは、口コミを利用して拡散する、いわゆるシェアしたくなるような動画やエピソードを紹介するキュレーションメディアのことを言う。

「全世界が感動した○○は××だった」とか「○○のラストが衝撃だった」とか「○○のやる××が鳥肌ものの完成度だった!」とか、どこかから動画や写真を探してきて、ささっとコメントを付け加えて毎日のように紹介しているようなWebサイトである。僕もこのブログで何度かスケボーの動画を紹介しているんだけど、あれを小出しにして毎日何回も紹介する感じのものがバイラルメディアだと思ってもらえばいい。

その大半は広告収入でなりたっているため、見てもらうために吊りっぽいタイトルがつけてあり、見た人が面白がってシェアする。シェアされた面白そうな情報は、さらに沢山の人をサイトに呼び込み、サイトの広告収入は増えるという仕組みだ。

バイラルメディアの現状

ここ半年くらいでバイラルメディアは過剰とも言える増え方をした。
すで飽和しつつあることもあってか、似たような番組ばかりになっているテレビの視聴率稼ぎ競争のような様相すら見せている。

話題になるような動画は数が限られているので、同じものを紹介していることも少なくない。彼らは拡散はするが、クリエイターではない。
生産側と比べ、供給側だけが過剰に増えているのである。

紹介しなければ広告費は入らないし、他のバイラルメディアに先を越されてしまうかもしれない。

ここにバイラルメディアをめぐる構造的な欠陥が一つある。

そもそも情報とは取りに行くものだった

情報の受け手側からの視点でも考えてみよう。

先週、Fcaebookで下記のような書き込みをした。
今、1番通したい法案が、『バイラルメディアシェア禁止法案』

すると、いいね!をした人はいわゆる「情強」ともいうべく、普段からネットを使いこなしている人達だった。彼らの共通点は情報を自ら取りに行く傾向の強い人達だということ。

facebookやtwitterなどのSNSの普及により、受け身でいてもある程度の情報は入って来る時代にはなった。それでも彼らは自ら情報を取りに行くし、情報の流れをコントロールしている人達だと思う。

情報は水と同じように高い所から低いとこに流れる。
そして、その逆は存在しない。

情報強者と言われる人達はそれを理解しているし、どこが高い場所なのかも把握している。
だから信頼性や鮮度に基づいて、情報に埋もれないよう情報の流通経路を整備しているのだ。

僕が情報強者がどうかということは別として、このことをまず念頭に置いて欲しい。

※情報に対する認識の点で、誤解を受けないように追記しておくと、インターネットが普及したことによって情報発信の機会は拡がったが、その影響力は平等ではない。低いところから高いところを目指すことはできるが、低い所から発信して、情報を望む受け手に届く可能性は低い。

では、なぜ嫌気がさすのか?

僕がバイラルメディアに対して嫌気をがさしているのはなぜなのか。
勘のいい人なら既にもう理解しているかとは思う。

独自性がなくて飽きている。

今は更新が止まってしまった「DROPOUT」というバイラルメディアがある。
刺さる動画メディアとしてバイラルメディアの中では立ち上げが古く、しっかりとキュレーションしてるイメージがあった。更新停止の経緯は知らないが、最後の投稿が動画でないところからも、厳選しようとしたことによるネタ切れだったのではないのだろうか。

今はネタが尽きつつあるメディアが、過去のバズりそうなものを発掘しようとしている、ように感じる。過去とは言ってもYoutubeが市民権を得てからの期間、つまり10年にも満たないアーカイブの中からである。

素通りしたモノを何度も目の前に提示される感覚

意識して素通りしたコンテンツが、Facebook上のシェアにより、繰り返し目の前に提示される。そこに悪意は全くないというのもポイントの一つなのだが、すでに見たものや、興味ないと判断済みのものなのである。しかも、それはリバイバルと呼んで懐かしむには、あまりにも期間が短すぎるものだ。半年前や3ヶ月前に見たものが繰り返し目の前に現れる。

twitterであれば、タイムラインはどんどん流れて行くし、そういう情報しか流さない人はフォローをはずせばいい。

しかし、Facebookではそうはいかない。
Facebookはリアルな友人、知人であり、情報を求めて付き合っているわけではない。(もちろん情報の流入先として参考にする人もいる。)

しかも、誰かが反応してコメントすれが、その情報は繰り返し流れてきたりする。
僕のように実際に会って話したことのある人としか繋がらない人であっても、Facebook友達が多ければ多いほど、このようないらないものを繰り返し提示されるという状況に置かれることは多いのではないだろうか。

情報だと、わかりづらいかもしれないので、食べ物に例えてみよう。

あなたは食事制限していて、食べるものをコントロールしているとする。
美味しくなさそうだから食べないものもあれば、美味しそうだけど健康に悪そうなものもある。そして、それらを食べないようにしている。

そこに知人Aさんが「これ知ってる?美味しいよ。」と嬉しそうに紹介している。知っているが、既に食べないことを選択したものだ。
その後Bさんも別のものを紹介している。もちろんそれも知っている。その後はCさんも。さらにBさんの話をきいたDさんも紹介している。
例えるなら、こんな感じである。

もちろん知らないこともあるし、比率の問題でしかない。
しかし、こういうのがバイラルメディアでは頻繁に繰り返される。

この時になんでも嫌なのかというと実はそうでもないところが、この感覚の複雑なところである。

例えばDさんはケーキ屋さんだったとする。
そして「本当に美味しいケーキに出会った。」と紹介している。
これについては知っていることでも全然嫌ではないのだ。

結論

バイラルメディアの存在価値はキュレーションの質と独自性にある。
なんでもかんでも紹介しているようなバイラルメディアは早かれ遅かれ見限られるだろう。
僕はバイラルメディアに嫌気がさしていると書いたものの、情報の流入経路としては当然チェックしている。

なんでもいいね!する人や「シェアさせていただきます。」という人は流石に減ってきた感じもする。今後は、皆がキュレーターとして何をシェアするかを考える時代になってくると、みんなが幸せになれるんではないだろうか。

最後に、この記事はシェアしてくれて構わないことを伝えておこう。

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