書評ブログ記事100本突破。書評についてじっくり考えてみる。

2014年8月3日
2017年5月16日
gappacker
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書評ブログ記事100本

書評ブログ記事が100本を越えた

このブログで書評として本を紹介している記事数が100本を越えた。
別に何かを成し遂げたわけではないし、ブログとしてはただの通過点でしかない。
それどころか書評ブログとしては100本書いてやっとスタート地点に立ったと考える方が自然だろう。

それでも書評100本というのは区切りとしてはいい機会なので、書評について、書評ブログのあり方について、現時点で感じていることをまとめてみようと思う。

どんな本を読み、紹介するか

僕は昔から定期的に書店に行き、どんな本が平積みになっているのかをチェックするようにしている。本屋を一周しながら、その時々を反映した書架を眺めることで時代を斜め読みした気になって、1人で満足しているのだ。

そんな僕だけど、新刊を追いかけるような読書はしていない。するつもりもない。むしろ、気になっていたけれど、読んでいなかった少し前の本を手に取ることのほうが多い。

それは一時的に注目を浴びた本のうち、内容が乏しいものは時間の洗礼に耐えられない、というナントカの法則(きっとどこかで誰かがすでに唱えているだろう)に乗っ取り、少しでも良い本に出会う確立を上げたいからだ。

もちろん技術書や流行、社会情勢についての本等、鮮度が大事な本は気になったらすぐに読むのが正しいと思う。しかし、本はジャンルによって半年で古くなるものもあれば、10年単位で古くならないものもあるのだ。

そしてもう一つ、僕は特定の作家の新刊を待ち望むような熱狂的なファンでもない。
首は長くならないし、サイン会に並ぶようなこともない。
アイドルがキスしてくれるなら、話は別である。
僕は柔軟さと下心も兼ね備えているのだ。

そんな柔軟さと下心を兼ね備えた僕が、話題の新刊以外でどんな本を紹介するのか。
これは書評を書く上で避けて通ることのできないテーマなのである。

絶対に読まない本もある。
オカルトや超常現象、および陰謀論の本である。
そして占いやタロットの本なども読まない。

脳は何らかの情報を得た時に、情報自体は覚えているが、ソースは憶えていないらしい、と脳科学の本に書いてあった。なんと言う本だったか憶えていない時点でこの説は正しいことが証明されているため、僕はこの説を信じている。

結局のところ、どうやって選んでいるのかといえば、今のところは体調や精神状態、読書のリズムに応じて、積ん読本の中から自由に選んでいる。

そのうち週や月でテーマを決めて固め読みするのも面白いかとは思っている。

それは書評なのか、要約なのか、メモなのか

このブログを始めた当初は書評をブクログに書き、それを転載していた。
それは見返すと、とても書評だなんて言えるレベルのものではない。
顔から火は出ないが、ため息は充分に出るレベルである。

今でも、書評といっていいレベルに達しているかと問われれば、「より良いものにしたいとは思ってます。」と答えるしかないのだが、最初のころは特に酷かった。
数行の感想に、「面白かったです。」程度のもので、読みました報告というか、メモレベル。

さすがに今はこのレベルからは脱却できたと思っているのだが、別の課題が出て来た。
それは書いているものが、書評なのか、要約なのかって部分である。

結局のところ「誰のために書いてるのか?」っていう部分に尽きるのだけれど、それを自分のために書き出してしまうと、いい部分は抜粋して残しておきたくなるため、要約みたいな内容になってしまうのだ。

では優れた書評とは一体何なのだろう?

優れた書評とは何か?

僕が思う優れた書評とは、本の魅力を伝え、その本を読んでみたくなるものである。

そのための前提条件として本に魅力がないと成立しないし、魅力のない本を人に薦めても意味がない。あの人が薦めていたけど、つまらなかった。そう思われてしまっては意味がないのだ。

この時に注意しなくてはならないのが、その本の内容に対しての事前理解度である。
たとえば、数学の得意な人が算数の本を読んだ場合、説明が端折ってあっても理解できるだろう。その一方で、算数を知らない人が初めて算数に関する本を読んだ時には、異なる印象を受ける筈だ。

何が言いたいかというと、自分のレベルをある程度示した上で感想を書かないと、読んだ人のレベルによっては、難しすぎたり、物足りなかったりして、本とのミスマッチが起きてしまう可能性があるということである。

・自分にとっては物足りないが、特定の理解度の人にはわかりやすいんじゃないか。
・自分には難しかったが、もっとわかっている人には役に立つんじゃないか。
このような本は少なくない。

どのように紹介するのがいいのかというのは課題の一つである。

昔読んだ名作問題

これまで出会った本の中で、僕にも好きな本が数冊はある。
書評を継続的に書き出すと、本当に自分が好きな本の書評を書いてないという状況に陥る。
読み直して書き直せばいいだけのことなんだけど、未読本が山積みなのと、新たないい本に出会いたくて別の本を読んでしまう。

例えば、デザイナーの原研哉さんの本。
デザインを表層で捉えるのではなく、思想に近いレベルで語っていて、とても深い。
原研哉さんの本に至っては書評を書くには、純粋にいろいろと至らないという点があって書けないということもある。

ミルの自由論。
古典でありながら、全く色褪せることのない名著。
歴史を、自由を、民主主義を考えるときにまず読んで欲しい1冊。
僕は、10年近く前に、この新訳版を読んで、ものすごい衝撃を受けました。
機会があったら読み直して書きたいと思いつつ、内容量が多すぎてどうにもまとめられる自信がない。

そんなわけで、自分の能力が至っていないから書けないというのもあるのだが、どこかでこの名作問題を乗り切らないといけない。

本と自分との距離感

本や著者によっては思い入れがあったり、本の中身とは直接関係のないエピソードがあったりします。このあたりをどこまで加えるのかのさじ加減についても考えたりします。

お笑い芸人のピース又吉の本。
一見、本の内容とは関係のない過去のエピソードなどから、うまく切り込んできて本の紹介に移ります。中盤でボールを回していたと思ったら、数本のパスでゴール前に。みたいなスタイルで本を紹介するのも面白いと思っています。

今後、書評をどうして行くか

文章や構成は少しずつ自分なりのスタイルが出来上がっていくんじゃないかと呑気に構えている。そして月に2,3冊は過去に出会った好きな本を読み直して、書評を書くのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら僕は今日も本を読んでいる。書評を200冊書いた時にこの記事を見直して、どう感じるかっていうのも楽しみである。

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